教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
羽柴(豊臣)秀吉が織田信長の死を知り、毛利勢と対陣中の備中から直ちに軍を返して山崎(京都府大山崎町)で明智光秀軍を打ち破った──いわゆる中国大返しは、秀吉のみならず、弟の秀長にとっても人生の一大転機。この歴史的事実は揺らがないものの、「豊臣兄弟」が明智勢との一戦(山崎の合戦)に遅参していたという新説が馬場隆弘・中京大学教授によって提唱されている。
大返しの起点は(1)6月4日午後発(2)6日午前発の両説あるものの、以前から、兵粮(ひょうろう)などの荷駄隊を含む大軍が13日の決戦日まで7日もしくは9日で移動できるのかという疑問があり、南蛮人宣教師ルイス・フロイスも著書の『日本史』に「この軍勢は幾多の旅と長い道のり、それに強制的に急がされたので疲労困憊していて(予想通りには)到着しなかった」と記している。
このように、もともと秀吉の遅参説がなかったわけではないが、6月13日付で秀吉が姫路城を預かる配下の武将へ宛てた書状で裏付けられたとして、その新史料が『戦国史研究』(三月号)に掲載されている。以下、関係する部分を意訳する。
昨日、勝龍寺に押し込めて放火させた。山崎はせと(狭門)であるので、こちらの軍勢はここに陣を取っている。明日は西岡へ進軍し、到着後に陣を敷く予定である