■秀吉が決戦場と睨んだ場所
「豊臣兄弟」が陣を敷いたのは、山崎の12キロほど手前にある摂津富田(とんだ)(大阪府高槻市)だと分かっており、13日の日中に秀吉はそこでこの書状をしたためる一方、摂津には池田恒興(いけだ・つねおき)らの織田家家臣がいて、彼らと羽柴勢の先発隊が昨日(12日)、西岡の勝龍寺城(同長岡京市)へ明智勢を押し込め、周辺を放火させた。また、秀吉の軍勢が西国街道を西岡方面へ進むには山崎という狭い土地(狭門)を通る必要があり、そこで富田に陣を敷いたと考えられる。つまり、光秀が勝龍寺城に拠り、秀吉は翌14日に城のある西岡付近を決戦場だとにらんでいたことになる。
ところが、実際に合戦が行なわれたのは、天王山が淀川に迫り出して狭い土地となっている山崎付近だったことが『兼見卿記(かねみきょうき)』で裏付けられる。その日記の筆者・吉田兼見は京にいて、13日の申の刻(午後4時ごろ)から山崎方面で鉄砲の音が鳴りやまず、やがて京の五条口へ落ち武者らが逃れてきたと書いている。
敗戦後、光秀は勝龍寺城へ逃れた後に脱出し、小栗栖(京都市伏見区)で討ち死にする。13日の日中に富田で「明日、西岡へ進軍する」と言っていった秀吉の本隊がすぐさま出陣の支度を整え、4時からの山崎の合戦に間に合ったとは考えられず、合戦当初の主力は摂津衆と羽柴勢の先発隊だったとも言える。「豊臣兄弟」がほぼ決着がついた後に参陣し、本戦に遅参していた可能性はあろう。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。