教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
天正10年(1582年)6月13日に山崎の合戦(京都府大山崎町)で羽柴秀吉(当時)が明智光秀を破った後のこと。27日に織田家の重臣が清洲城(愛知県清須市)に集まり、信長の後継や光秀旧領を含めた織田家中の領地配分などを決めた。いわゆる清洲会議だ。その会議に出席した宿老は秀吉の他、柴田勝家と丹羽長秀、そして池田恒興(いけだ・つねおき)である。
その恒興は、父・恒利が浪人中、母の養徳院が信長の乳母となったことから織田家に仕えたとされる。なお、信長が養徳院の乳房のみ噛み破らなかったため、彼女が乳母になれたという伝説がある。恒興は永禄3年(1560年)の桶狭間の合戦で手柄を挙げたとされ、元亀元年(1570年)に尾張の犬山城を与えられる。その後、摂津の荒木村重が信長に背いた際、村重の花隈城(神戸市)を攻略。花隈の他に、尼崎などの摂津諸城を与えられ、村重に代わる地位を得た。
とはいえ、秀吉・勝家・長秀の三人が各方面軍の司令官的な役割を担っていたのと比べると、恒興だけが格下の印象を抱かせる。その彼が、なぜ宿老会議に参加できたのかという疑問は以前から存在していた。