■新説・山崎の合戦

 しかし、前回で述べた山崎の合戦の新説に従うと、その謎が解ける。《【前回の記事】はこちらから》

 秀吉の本隊は13日午後4時から始まった合戦に間に合わず、その主力は摂津衆だったという説だ。

 摂津衆を率いる立場だったのが恒興。いくつかの史料に彼の活躍が記載されており、例えば、『浅野家文書』に掲載される秀吉書状の写しによると、6月12日に恒興が山崎表まで出張り、中川清秀と高山重友が先陣争いしているのを制している。

 この史料では秀吉も恒興に同道したと書かれており、それが事実なら秀吉も13日の合戦に間に合ったことになる。ただ、12日に秀吉が山崎表にいた事実はこの史料以外で確認できず、似た内容の秀吉による書状の案文(草稿)が存在し、そこには秀吉が合戦後の14日に山崎表にいたと書かれている。

 つまり、秀吉は13日の合戦に間に合わなかったことを隠すため、草稿の時点で14日となっていた内容を書き換えたという論も成り立つ。新説の提唱者、馬場隆弘氏によると、このように秀吉の推敲の跡からは遅参を伏せる意図が見え隠れしているという(『戦国史研究』三月号)。

 ともあれ、このように山崎の合戦で恒興が摂津衆の先陣争いを制していることから、彼が摂津衆を率いて山崎の合戦に勝利していた事実がうかがえる。こうした実績によって彼が清洲会議に出席できたのだろう。

 その後、恒興は秀吉の甥(後の関白・豊臣秀次)を娘婿にもらって秀吉に仕え、その秀吉が本格的に築城する前の大坂城、さらには美濃大垣城に在城したものの、小牧長久手の合戦(1584年)で自ら主張した奇襲作戦が失敗して討ち死にする。

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。