野球が“国民的スポーツ”だったあの時代。バットひと振りでスタンドを沸かせたスーパースターがいた。
今や、大谷翔平(31)を筆頭に、日本人選手が大リーグで本塁打王を競い合う時代。若き侍の活躍は誇らしい限りだが、本サイトの読者世代にとっての原風景は、やはり昭和プロ野球だろう。
野次が飛ぶ猥雑な雰囲気の球場で、豪傑たちが夜空を切り裂いてかっ飛ばす豪快なホームラン。
スタンドに紫煙漂った昭和のあの頃に思いをはせながら、今回は一時代を築いた名スラッガーを大特集。平成・令和とは一線を画す、昭和男が描いた夜空の放物線を改めて味わいたい。
1980年代、アクの強い個性派が集うパ・リーグでは、南海・門田博光(享年74)と、ロッテ・落合博満(72)が和製大砲の双璧だった。
まだ投手だった若手時代に、門田とも何度も対戦した愛甲猛氏は、そのときの“恐怖体験”をこう話す。
「球場がガラガラだったせいもあるけど、マウンドまで届く空振りのスイング音がもう、えげつなくて。あのマン振りからピッチャーライナーでも打たれたら、俺、死ぬんじゃないかって。野球をやってて、“投げるのが怖い”と思ったのは門田さんが初めてだったね」
その愛甲氏いわく、打者としての門田は「ホームランを打つこと以外、まったく考えていなかった人」。関西遠征時の大阪球場では、信じ難い光景も目の当たりにしたという。
「試合前練習で門田さんの番が来たら、打撃投手がL字のフェンスをズズッと前に出すんだよ。で、至近距離からのボールを、1キロ以上はありそうな重いマスコットバットで門田さんがポンポン、スタンドに入れるわけ。あんな練習をしていたのは、後にも先にも、あの人だけだと思うよね」
むろん、愛甲氏は言わずと知れた落合の直弟子で、全盛期の天才を最も近くから見ていた。野手転向前の投手時代には、紅白戦で直接対戦したこともあった。
「普通、打つ気満々の打者からは殺気を感じるものだけど、オチさんからは“この人、本当に打つ気あんのか”ってくらい、そういうものを感じない。なのにリリースしたとたんに、懐がブワッと開いて、次の瞬間には“あ、打たれる”と分かるんだよ。打つ瞬間にだけ、100の力を発揮する。まさに、そんな感じだね」
ちなみに、落合自身は大の長嶋ファンとしても有名だが、会話の端々では野村の名前もよく聞かれた。
「野村さんは、どちらかに偏らなければ重みを感じない、という意味で“バットは傘のように持て”と言っていたけど、その意味でオチさんの構えは、野村さんの雰囲気に近かった。直接、聞いたことはないけど、野村さんの打ち方も、かなり研究したんじゃないかな」
史上唯一、3度もの三冠王に輝く落合だが、スラッガーの“性”とも言うべき飛距離には無頓着。
本塁打が量産できた背景として、狭い川崎球場が本拠地だったことを指摘する向きもあるが、当人は、それすらもまったく意に介すことはなかったという。
「川崎の両翼は、間違いなく90メートルもなかったけど、オチさんは“90メートルの球場で100メートル飛ばそうが、入る点数は同じだろ”と、よく言ってた。入る点数が同じなら、より少ない力で柵を越えたほうが効率がいい。
そうやって徹底して合理的に考えるあたりが、いかにもオチさんらしいな、とは思ったよね」(愛甲氏)