教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
戦国最強とされる村上海賊(水軍)を破った九鬼嘉隆(くき・よしたか)。彼が率いる志摩水軍こそが戦国最強といえそうだが、その水軍には、「織田信長の水軍」という呼び名もある。しかし、その解釈が揺らいできている。まずは九鬼嘉隆の経歴を確認しておこう。
複雑な海岸線を持つ志摩には「志摩拾(じゅう)三衆」と呼ばれる国衆がいて、それぞれ水軍を率いていたと考えられる。九鬼氏はその一人。当時、兄が家督を継いでいたものの、その死後、まだ幼少だった甥を支える立場だった嘉隆は他の志摩衆との戦いに敗れ、本拠の田城(たしろ)城(三重県鳥羽市)を追われて伊勢の安濃津(同津市)へ逃れたと伝わる。
そこから巻き返しが始まり、嘉隆は信長に近づいて、永禄11年(1568年)の信長上洛以降、配下になったようだ。この決断が功を奏し、天正3年(1575年)、信長が次男・信雄を北畠家(伊勢の国司で志摩を勢力下に置いた)の養子に入れて伊勢・志摩の両国が織田の勢力圏になると、九鬼氏が次第に他の志摩衆を従える立場になって、嘉隆が甥から家督を奪ったと考えられる。