■毛利水軍との戦い
そして同4年、本願寺と交戦中の信長は村上海賊を中心とする毛利水軍に大坂の木津川口で惨敗。ただし、このときの織田水軍(300余艘)の主力は摂津・和泉衆で、九鬼水軍は本格的に参戦していなかったようだ。本願寺に味方する毛利水軍(約800艘)が「焙烙火矢(ほうろくひや)」という手榴弾を織田方の船へ投げ入れ、その多くが大破炎上したと『信長公記』にある。結果、毛利方は籠城する本願寺への兵糧入れに成功する。
こうしてリベンジを期す信長が嘉隆に6艘の大船建造を命じ、完成したのが有名な鉄甲船だ。『多聞院日記』に「鉄砲とをらぬ(通らぬ)鉄の船」とあり、鉄板で装甲して焙烙火矢の攻撃を無効化する狙いがあったとみられる。同6年、毛利水軍と再び木津川河口沖で海戦となった際、鉄甲船から大砲を一斉に放ち、毛利水軍方は被害を受けて沈黙したという(『信長公記』)。
この海戦の勝利によって嘉隆は志摩の支配権と大坂の野田・福島で7000石の加増を得たようだ。彼は信長の死後、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の合戦(1600年)で西軍について自害するが、九鬼家は存続した。
そこで問題は、嘉隆率いる九鬼衆が本当に信長の水軍だったのかどうかだ。というのも、海戦の2年後、嘉隆が水軍を率いて花隈城(神戸市)を攻める織田勢に参陣した際の感状が、信長ではなく信雄から与えられているからだ。感状は主君が家臣に発するもの。つまり、北畠家を継いだ信雄が嘉隆の主君であり、信長からみたら嘉隆は陪臣という形になる。だがそれは形式にしかすぎず、主君が信雄であれ、信長であれ、織田水軍の主力であるのは間違いない。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。