教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!

 平安時代に平泉(岩手県)で黄金文化を築いた奥州藤原氏は四代で滅んだ。その四代泰衡(やすひら)は、父・秀衡(ひでひら)の遺命に背いて源義経を討ち、後世の悪評を招き、優柔不断で凡庸な人物とも言われる。本当にそうだったのか。

 文治元年(1185年)11月、京の義経らは、鎌倉の兄・源頼朝を討つべく西国で挙兵するため船出したが、疾風に遭って一行は散り散りになり、計画は頓挫。義経主従はかつての縁を頼り、翌文治2年ごろ、平泉に迎えられた。頼朝が義経の平泉入りを知るのは翌文治3年になってからだが、義経は朝廷から追討を受ける身であり、同年9月4日付『吾妻鏡』によると「秀衡が前伊予守(義経)を助けて反逆を企てている」という訴えが朝廷に出され、鎌倉方の雑色(ぞうしき)が平泉を探索したところ、その兆候をつかんだという。

 おそらく秀衡は、鎌倉方との対決はもはや避けられないと覚悟し、義経の軍略に期待したのだろう。だからこそ泰衡らに、義経を大将軍として陸奥国の国務にあたるよう遺言し、その年の10月に死去する。