■したたかな泰衡よりも一枚上手な頼朝
文治4年になると、頼朝の働きかけもあって朝廷は、泰衡に義経らを追討すべしという宣旨などを発し、日増しに鎌倉と平泉の緊張は高まってゆく。通説ではそうした頼朝の圧力に屈し、ついに泰衡は父の遺命に背いて翌文治5年閏4月、平泉の義経の館を襲って自害させ、その首を鎌倉へ送ったとする。
だが、泰衡は何もしなかったわけではない。鎌倉で荷を押さえられるリスクを覚悟しつつ、朝廷へ奥州産の馬や金を贈り、しきりに工作していた。朝廷にしたら、追討を命じた義経を討ち果たしてもらわねば面目が立たないが、献金してくれる奥州藤原氏まで滅亡させる必要はない。泰衡は、朝廷がそう考えるだろうと思い、父の遺命に背いたとはいえまいか。事実、朝廷はなかなか奥州追討の宣旨を頼朝に与えなかった。
だが、朝廷の真意を知る頼朝は宣旨を待たず、泰衡が義経を匿まっていたことなどを口実に7月19日に軍を率いて鎌倉を発ち、その鎌倉勢が阿津賀志(あつかし)山(福島県国見町)の防塁を抜くと、泰衡はなぜか8月21日に平泉に火を放って北へ逃れた。9月3日、贄(にえの)柵(秋田県大館)で泰衡は配下に裏切られて殺され、頼朝は後日、その追討を賞する院宣を賜る。頼朝が一枚上手だったのは間違いないが、泰衡にも見てきたとおり、したたかな面があったのは確かだろう。
ところで、本当に泰衡は義経を討ったのか。その首は夏場に40日以上かけて奥州から鎌倉へ運ばれている。酒の中に漬けて保存処置が施されていたとしても原形をとどめていたかどうか疑問。泰衡があっさり平泉を捨てて北行したのが同じく北へ逃れていた義経らと合流するためだったとしたら辻褄は合うのだが……。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。