教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
小牧長久手の合戦で羽柴(豊臣)秀吉は、信長の事実上の後継者となった織田信雄(おだ・のぶかつ)を降して主従を逆転させ、ここに豊臣政権が誕生する。
信雄が従属の証として大坂城に出仕したのは天正13年(1585年)2月22日。そして1か月ほどたった3月21日に秀吉は紀州へ向けて出陣。その際、弟の秀長が副将を務め、早くも豊臣政権の補佐役の役割を果たしている。その豊臣兄弟が出陣後、まず攻めたのが和泉国の諸城。千石堀・畠中・積善寺・沢(いずれも大阪府貝塚市)の各城だ。
21日に羽柴軍が千石堀城を攻め落とすと、その日の夜、畠中城の籠城衆は城に火を放って退散。翌22日には秀長が城方と交渉し、積善寺・沢の両城を開城させている。本願寺の役人(宇野主水)の日記によると、このうち畠中城は「百姓持たる城」とされ、他の城とも連携していたことが後述の史料で確認できる。
つまり、百姓生まれの豊臣兄弟が政権発足後、初めて実施した軍事行動が「百姓持たる城」を攻めることだったのだ。それでは、畠中城に籠城した「百姓」の正体は何なのか。