■「百姓の城」を率いた地侍・中兄弟の実像

『先代考拠略』という史料によると、中盛行・盛永の兄弟が畠中城に籠城し、この兄弟が「百姓の城」の事実上の“城主”だったと読み取れる。この「豊臣兄弟VS中兄弟」の戦いは前述したとおり、あっさり決着がついたわけだが、畠中城からは千石堀城や積善寺城へ加勢を送り、特に落城寸前の千石堀城では彼ら百姓たちの援軍によって大いに力を得たという。この史料は江戸時代に書かれた中氏の家記であるため、すべてを鵜呑みにはできないが、百姓たちが城をかまえて勇敢に羽柴軍と戦い、千石堀城の落城を見て、みずから城に火を放ったものと思われる。

 この「中盛行・盛永」兄弟の中氏は和泉国熊取谷(大阪府熊取町)の地侍。当時、惣村といって、いくつかの村々が一つの鎮守の社を中心に座を作って団結していた。その惣村熊取谷の指導者が中氏であり、畠中城に籠城した百姓たちはみな、惣村の地侍だったと考えられる。戦国時代の常識でいうと地侍たちは百姓と認識されていたものの、戦力としては決して侮れない勢力だった。江戸時代の記録から、当時の地侍・中氏の実力を推定すると、30名以上の一族のほか、40名以上の「内衆」(家臣)を擁していた。

 盛行・盛永はじめ、畠中城に籠城した地侍らは紀北(紀伊国北部)で大名級の実力を誇った根来寺に与していた。つまり、秀吉は紀州攻めの前哨戦として、泉南(和泉国南部)に勢力を張る地侍や根来寺方の諸城を屈服させ、続いて本丸といえる紀北に攻め入って、4月26日に両地域を平定したわけだ。こうして秀長は秀吉から和泉・紀伊二国を与えられ、和歌山城を築いて居城する。

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。