教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!

 明治6年(1873年)、発足間もない新政府は征韓論を巡って分裂。この論争に敗れた薩摩の西郷隆盛、肥前の江藤新平、土佐の板垣退助らが参議を辞任し、下野した。結果、西郷らが不平士族の首魁に担ぎ出され、板垣は自由民権運動に奔走する。

 下野した参議はいずれも征韓論を主張。通説は、隆盛がその中心だとしてきたが、近年必ずしもそうとはいえない方向へと修正されつつある。隆盛の真意はどこにあったのか。

 発端は当時の朝鮮が日本を「無法之国」と侮蔑したことにある。通説が隆盛を征韓論者だとする第一の根拠は、板垣宛ての手紙。

 そこで隆盛は「まず使節を差し向けることがよろしいかと思います。使節を遣わせば(朝鮮政府は)使節を暴殺するでしょう。そうなったら、朝鮮を討つ名目が立ちます。(その使節には)なにとぞ私を御遣わし下されたい」と述べている。隆盛は「暴殺」され、つまり、朝鮮へ出兵(征韓)する口実を得るための使節の役目を買って出ているのだ。

 隆盛が「使節暴殺」という言葉を使っているのは板垣への手紙だけ。一方、征韓論が政治問題となった頃、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らの海外渡航組に代わり、隆盛のほか、肥前の江藤・大隈重信・大木喬任、土佐の板垣・後藤象二郎の五名が留守政府の参議(閣僚)を務めた。しかも、外務卿には江藤らと同じ肥前出身の副島種臣がいて、彼は清国(中国)との外交交渉で成果をあげ、朝鮮への使節派遣が有力視されていた。そのため、隆盛は征韓を強く主張する板垣の支持を取り付けるため、あえて使節謀殺論を持ち出したとする(毛利俊彦「明治六年政変」)。つまり、隆盛の本心は朝鮮使節になることにあり、征韓ではないという。