■八重洲の地名の由来

 アダムズが家康の外交ブレーンだったのに対し、ヨーステンには家康の通訳官としての役割が期待されたようだ。また、幕府の貿易許可証(朱印状)を得て、インドシナ各地との交易を図った貿易家でもあった。

 慶長14年に平戸オランダ商館が開設されると、将軍や幕閣の信頼を得ていた彼が幕府との折衝にあたった事実がオランダ東インド会社艦隊司令官の報告によって分かっている。しかし、彼が当時の習慣を無視して強引に商館員と将軍との謁見を図り、本多正純ら幕閣に拒絶されたこともあって、オランダ東インド会社商務総監が平戸商館長へ、ヨーステンには十分警戒するよう警告している。彼の本質はあくまで貿易家であり、そのため、強引に事を運び、大風呂敷を広げるところがあったのだろう。

 元和7年(1621年)、ジャカルタの東インド会社総督に帰国願いを出して認められるものの、会社への借金が残っていたため取り消され、日本へ帰る途中に難破し、溺死した。

 なお、彼が賜った邸が江戸城の堀端にあり、彼の名前が訛って周囲が「八代洲河岸」と呼ばれ、明治になって「八重洲町」へ改称。昭和の初めに「丸の内」の一部になった。戦後、新たに東京駅東側一帯に八重洲の名が受け継がれ、地下街に彼の記念像が立った。

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。