教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!

  江戸時代を代表する名君の一人に、第九代米沢藩主の上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)がいる。沈没しかけていた米沢藩の財政を立て直した人物だ。藩主の座を次代に譲る際に「伝国の辞」を残したことでも知られるが、それがオリジナルでなかった可能性がある。

 まずは駆け足でその名君ぶりを振り返ろう。鷹山は日向高鍋藩主の次男として生まれ、9歳のときに米沢藩主・上杉重定の養子となって、養父の引退後、明和4年(1767年)に17歳で藩主を継いだ。上杉家は戦国の謙信以来の家格を誇り、それを守るための出費、さらには藩主の浪費も響き、鷹山が藩主となる以前、米沢藩は年間歳入のおよそ6倍に当たる20万両の借財を抱えていた。

 そこで彼はみずから範を示し、食事は一汁一菜を原則とし、綿衣着用などにも心がけ、藩主の生活費(仕切料)を1500両から209両へ8割以上もカット。奥女中の数も50人から9人へ削減した。

 また、鷹山が農耕儀礼の場でみずからくわを取り、率先して農業振興への決意を示したことは、家臣にも大きな影響を与え、新田開発や荒地開墾を後押しした。一方で、武士に農事を奨励する改革には保守派の重臣らが強く反発し、「武士の本分に反する」として鷹山を厳しく批判した。

 必ずしも改革は一本調子には進まず、天明5年(1785年)、35歳で藩主を養父・重定の次男・治広に譲り、隠居。その後も広く藩士から意見を求めて、新たな改革を進めた。