■頼朝に弾劾された24名の御家人のその後

 幕府は、頼朝と御家人らの主従関係で成り立っており、彼らが後白河法皇から官職を賜る行為はある意味、御家人と法皇が疑似的な主従関係で結ばれることを意味するため、頼朝としては決して見過ごすことのできない問題だったのだ。

 しかも、頼朝は無断で任官した御家人らに、せっかくの官職なのだから、都にとどまって忠勤に励み、「決して東国へ下向してくるではない。もしそうしたら、おぬしらの本領を没収するか、斬罪に処すよう朝廷に申し出ることといたす」と切って捨てているのだ。

 それでは頼朝に弾劾された24名の御家人はその後、どうなったのか。

 中には、その後の活躍で頼朝の信を取り戻した御家人もいた。「駘馬の道草を食らうがごとし」と痛罵された八田知家(はった・ともいえ)と小山朝政(おやま・ともまさ)だ。

 まず知家は頼朝の死後、集団指導体制になった幕府内で、いわゆる「鎌倉殿の13人」に名を連ねる1人。彼を頼朝の父・義家の「男」とする史料があり、頼朝と兄弟だったとする「義朝落胤説」が伝わる武将。文治5年(1189年)に頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした際、知家は主要道の大将に任じられている。朝政も頼朝の上洛(1190年)に供奉し、下野国の守護職を担う立場となった。

 このように東国への帰参を禁じられた御家人の中には頼朝の怒りが解け、忠勤に励んで出世する御家人もいたのだ。このあたり、一時的な怒りにまかせて有望な御家人の将来の芽を摘んでしまわなかった頼朝は、さすがといえる。

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。