■ディレクターが逮捕された「ヤラセ事件」

 元隊員たちに当時の話を聞くとやはりフェイクの中にもリアルがあり、虚々実々の衝撃エピソードばかりだった。原始猿人バーゴンもナレーションをあらためて確認すると「捕獲」ではなく「(少数民族の)保護」と言っていた。当時は気付かなかった細かいコンセプトが実はあったのだ。

 さらに探検隊を検証していくと、同時代に起きた事件や騒動ともリンクしていたことがわかった。その一つが、当時のテレビ朝日のお昼のワイドショー『アフタヌーンショー』のヤラセ事件である。

 1985年8月20日に番組が放送した中学生のリンチ場面が、ヤラセだったという騒動だ。社会問題となり、その2カ月後の10月に番組は打ち切られてディレクターも逮捕された。

 しかしテレビ史に残る大事件なのにきちんと検証されていないことに気づいた。さっそく洗いなおすと、なんと事件の当事者である元ディレクターが、事件の翌年に本を書いていたのである。驚愕したのは、あれはヤラセではないと主張していたことだ。さらに私が興味を持ったのがジャーナリスト・ばばこういち氏の当時の証言である。元ディレクターの著作から引用する。《テレビジョン、特に生のワイドショーというのは〈やらせ〉という仕掛けと〈やり〉という自己主張のせめぎ合いの〈場〉だと思うんですね。》(ばばこういち)

■設定された状況があるからこそ「アドリブで火花を散らす」こともできる構造

 初めて目にする言葉が出てきた。「やらせ」ではなく「やり」(以下カタカナ表記で統一)。
実はこれらの言葉は当の元ディレクターも自著で使っていた。リンチはヤラセではなかったが、カメラ前にいた女番長たちはテレビカメラを向けられていたので自分の振る舞いを意識したのだろうと。《レンズを通して日頃の自分たちの怒りのエネルギーを精一杯見せてやろうと考えたことは想像に難くありません》という。そしてそれは「ヤラセ」ではなく「ヤリ」であると元ディレクターは断言していた。

 この言葉を読んでしばらく考えてしまった。この違いは大きい。天と地ほどの差がある。このニュアンスが理解できるかどうかは、テレビやエンタメを見るうえでとても大事なポイントではないだろうか。

 ヤリとは何か? つまり設定された状況があるからこそ「アドリブで火花を散らす」こともできる構造のことである。

 これは今のテレビでもあるだろう。討論番組で田原総一朗がいきなりキレるのもそうだ。あれは奮起して自ら見せ場を作っているヤリであってヤラセではない。芸人ドッキリだってそうだろう。ドッキリだと薄々気づいていても自ら番組を面白くしようという気概(ヤリ)は決してネガティブなものではない。

 ヤリとはなんとも絶妙な「表現」であることがわかる。と同時に人間はカメラが目の前にあるだけで、非日常に追い込まれてテンションが変わってしまうことも再認識させられる。だからカメラを向ける側は強大な力を持っていることを自覚しなければならないのだ。報道被害という言葉もあるが、カメラを向けた側は権力者でもある。ナチュラルな加害者性も知っておくべきだ。