■伊丹万作の目に留まった初シナリオ『山の兵隊』
そんな彼の脚本家になる前はというと、呪いたくなるぐらいにツイてない人生で、太平洋戦争の最中、いよいよ兵隊さんに召集されていくというときに、あろうことか肺結核になってしまいます。
当時の肺結核は死の病。兵隊には行けず、世間に結核菌をばらまかないために、地元・岡山の外れの山の中にある療養所に隔離されてしまう。あとはもう死ぬのを待つばかりの、国から、世間から見捨てられた人たち。本書にある橋本自身の言葉を借りれば、
〈ほとんどの患者が死ぬんだよ。その悲惨な結核廃兵の死を一般社会からカムフラージュするため、人目につかぬ山の中に集め、こっそりと死なせるための施設なんだ〉
仲間の中には死んでいく者も多くいた。まさに、そこには生と死がある。壮絶な人間ドラマを、橋本は目の当たりにしたんですね。
死と隣り合わせの最低最悪の境遇の中。しかし運命とは分からぬもの。たまたま隣のベッドの男が貸してくれた『日本映画』という雑誌を読んだ彼は、巻末に掲載されていた映画のシナリオに目を留めた。初めて映画のシナリオというものを読んだ橋本は、こう思った。
「この程度なら自分でも書けそうな気がする」
これが映画の脚本家になるきっかけ。映画のシナリオを初めて読んで「簡単だから自分でも書けそうだ」と思ったというんですから、きっと文才があったんでしょう。
ここからが彼のすごいところ。雑誌を貸してくれた男に「日本で一番偉い脚本家は誰か?」と聞くと「伊丹万作」という名前が返ってきた。すると橋本は、こう言い放った。
「では、私は自分でシナリオを書いて、その伊丹万作という人に見てもらいます」
伊丹万作は『天下太平記』や『無法松の一生』の脚本などで高い評価を得ていた脚本家であり、監督。息子さんが俳優としても監督としても高く評価された伊丹十三さんです。
普通なら当時の超一流脚本家に、どこの馬の骨とも分からないド素人の一青年が書いたシナリオを送ったところで読んでもらえるはずがない。
ところが、橋本が人生で初めて書いたシナリオ『山の兵隊』を伊丹宛に送ったところ、なんと伊丹万作が目を通してくれたうえに、丁寧なアドバイスまで付けて返事をくれた。
なぜ、高名な脚本家であり映画監督である伊丹万作が無名の青年のシナリオを読んだのか。それは、当時、伊丹万作も肺結核を患っていたから。『山の兵隊』は橋本が療養所での実体験をもとに書いた話。伊丹は肺結核と聞いて興味を持って読んだわけ。
ここが人間の運命の不思議で面白いところですよね。自分が肺結核だったがゆえに伊丹万作の目に留まった。以来、橋本はせっせと脚本を書いては、師と仰ぐ伊丹に見てもらうようになった。
医者から「余命2年」と宣告され、もう、ぼちぼち死ぬ頃だなと諦めていた橋本でしたが、戦争が終わって日本が負けたと同時に、また奇跡が。なんと、アメリカから肺病の特効薬のストレプトマイシンが入ってきて一発で治っちゃった。
てっきり終わると思っていた命がつながり、これからも生きることになる。仕事して生活費を稼ぐかたわらで書いた脚本を持って、伊丹に見てもらう生活。ところが、悲しいことに敗戦から1年後に、伊丹が病で死んでしまう。またも悲運に見舞われた橋本。しかし、またも思わぬ幸運がやってくる。