■ベテラン斎藤という“希望”
他方、“運”を味方につけて不動の地位を築いたのが、06年加入の斎藤隆だ。
渡米時点で、すでに36歳。マイナー契約での挑戦を、冷笑する者も多かった。
「当時、チームには04年までの3シーズンで152セーブを挙げた守護神・ガニエがいたけど、05年に受けたトミー・ジョン手術から回復が芳しくなく、隆にお鉢が回ってきた。彼の場合も、大きかったのはスライダー。日本より外に広い向こうのストライクゾーンも追い風になった」(藪氏)
1年目にして、球団新人歴代最多の24セーブを挙げると、翌07年には、それをはるかに上回る39セーブと抜群の安定感を発揮。
イチロー(当時、マリナーズ)、岡島秀樹(同レッドソックス)とともに、夢の大舞台オールスターのマウンドにも立った。
「当時の斎藤は、自ら横浜を自由契約となる道を選んで、年俸5万ドル(約500万円=当時のレート)という一からの再出発を切った。
そこから這い上がった彼の姿は、30代半ばでポジションを掴んだ、後の上原浩治らにも勇気を与えたはずですよ」(スポーツジャーナリスト)
また、続く08年には黒田博樹が広島から加入。在籍3年目となる斎藤との“日本人リレー”もオープン戦から実現する。
「同年の31先発は、球団新人では歴代3位。特に7月7日のブレーブス戦で演じた、あわや“完全試合”の1安打完封劇で、一気にファンの心も掴みました。この年はポストシーズンでも2勝をマーク。イニングを稼げる“ワークホース”として絶大な信頼が寄せられました」(大リーグ評論家 福島良一氏)
また、黒田が男気を見せて、名門ヤンキースから古巣・広島へと凱旋した16年には、直属の後輩・前田健太(36)が、黒田の背中を追うようにドジャースへと移籍。
25年ぶりVで有終の美を飾る黒田に負けじと、リーグ5位の16勝を挙げる大活躍。先発デビュー戦では、挨拶代わりに自ら本塁打まで放ってみせた。
「1年目での16勝は、当時、レンジャーズだった12年のダルビッシュ有(39)と並んで日本人最多タイ。
チャンピオンにこそなれませんでしたが、17、18年と2年連続で進出を決めたワールドシリーズでの登板も、日本人投手では球団史上初の快挙でした」(前同)
なお、その17年には、7月31日のトレード期限ギリギリで、件のダルビッシュもドジャーブルーに。
ポストシーズンを見据えた“優勝請負人”としてのスポット参戦ながら、9月8日のロッキーズ戦では、MLB史上最速での1000奪三振にも到達した。
「ポストシーズンで2勝を挙げるなど、ワールドシリーズ進出に貢献。ただ、肝心シリーズでは2度の先発機会で、いずれも2回持たずに降板するなど振るいませんでした」(同)
しかし、このKO劇には裏事情があった。
「このときの対戦相手アストロズには、後にチームぐるみでの“サイン盗み”が発覚。監督やGMが解任、ドラフトの指名権も剥奪されるなど大騒動になっている。その犠牲者でもあるダルビッシュには、同情の声も上がりました」(同)
ところで、日本人選手の評価を底上げした投手陣の華々しい活躍に比べ、ドジャース在籍の野手は、“二刀流”の大谷を除けば、わずかに2人と寂しい限り。
その2人、豪快なフルスイングが代名詞だった05年の中村紀洋、レイズから21年に移籍した筒香嘉智(33)は、ともに1本の本塁打も放つことなく、1年でチームを離れている。
●元スポーツ紙デスクの大ベテラン記者が語る『幻のドジャース・長嶋茂雄』

あのミスタープロ野球にドジャース移籍話があったという。当時を知る長老記者は、こう振り返る。
「1961年、巨人はドジャースの春季トレーニングの場所でもあるフロリダ州ベロビーチでキャンプを行ったんですが、そこでドジャースのウォルター・オルストン監督が長嶋に“メジャーに興味はあるか?”と声をかけたんです。新人の年(58年)のオフに日米野球があったんですが、そこでも長嶋は活躍してますから」
誘いは、社交辞令ではなかった。
「当時のドジャースのオーナーで親日家の、ウォルター・オマリー氏が63年オフに来日し、“相手は誰でもいい”との提案で、正力松太郎読売新聞社長に長嶋のトレードを申し込んだんです。もちろん、日本球界の至宝である長嶋だけに、話はまとまらなかった」
しかし、この話が公にされることはなかった。
「当の長嶋にも、後年に教えられたほど。現役時代にこの話について聞いたら“高いレベルで戦ってみたい気持ちと憧れはあるけど、球団が決めることですから”なんて答えてましたけど、メジャーに挑戦する選手が現れてからは“今になってみれば行ってみたかったな。これが本音ですよ”とも言ってました。全盛期の長嶋が行ってたら、どうなってましたかね」