■夏目漱石の小説が「悩め」と訴えて

「こうすれば成功できる」という自己啓発的なビジネス書がブームとなる一方で、人間というのは不思議なもので「やらかした人が、どんどん落ちぶれていきました」という物語も読みたくなる。立身出世ものと同時に、めきめきと売れ始めたのが夏目漱石をはじめとする文学小説。

 夏目漱石は『こころ』などの小説を通じて、読者に”悩むこと”を訴えかけた。出世のためのハウツーではなくて、悩むことで物事を深く考えていく文学も日本人は求め始めたんですね。

 さて、時代は進んで大正末期。大正14年にヒットしたのが谷崎潤一郎の『痴人の愛』。

「田舎から出てきた真面目なサラリーマンが、カフェで働く美少女を引き取る」というあらすじは、まさに谷崎潤一郎がサラリーマンに向けて書いた妄想物語そのものだったのではないだろうか。

 本書にはこう書かれていますが、主人公は大正時代に誕生した‟新中間層”といわれるサラリーマン。数え年で15歳の少女・ナオミを、自分好みの女性に育て上げようとする男の物語。

 こう聞くと、単なるロリータ好きのエロ小説のように思えますが、そこは、さすが文豪の谷崎潤一郎、まるでフロイトよろしく、人間の心の奥底にある性の領域まで文学で描いた。

 考えてみれば「子供を引き取って自分好みの女性に仕立て上げる」というのは、日本人の歴史と伝統の中で、ひそかに受け継がれてきた性に対する嗜好ではなかろうか。

 平安の昔に紫式部が描いた光の君(光源氏)も、そうでした。『痴人の愛』というのは近代における‟源氏物語”ではないだろうか。

 これがもし、リアルに描かれていたならば、ものすごい抵抗があったでしょう。しかし、谷崎潤一郎という作家の腕を借りた仮想の物語であれば、読者も抵抗なく読むことができる。その証拠に、谷崎潤一郎には女性ファンも多くいました。

 ここで武田流の分析を一つ。

 日本人は、やっぱりスケベなのよ。だって『痴人の愛』みたいな小説が、間もなく日中戦争に突入するって時期にベストセラーになっちゃうんだから。ということは、この小説に描かれている世界は、すべての男の中に眠っている‟欲望”であり、すべての女性たちの心の奥底に隠されている‟性愛への憧れ”なんでしょうね。

 確か三島由紀夫のエッセイに書いてあったと思いますが(……間違えていたらスイマセン)、三島の親戚のお姉さんが、真面目な学生の三島をからかって言ったそうです。「おまえも谷崎潤一郎の変態小説とか読みな」……って。

 これは武田の勝手な考察ですが、『痴人の愛』が、大正末期の間もなく日中戦争勃発という時期にベストセラーになりえたのは、「日本人は深いところで性的な人間である」という証明ではなかろうか。私には、そんなふうに思えるんですよねぇ。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか
なぜ働いていると本が読めなくなるのか

三宅香帆著。「大人になってから、読書を楽しめなくなった」――。自らも兼業での執筆活動を行う著者が、労働と読書の歴史をひもとき、日本人の「仕事と読書」のあり方の変遷を辿る。明らかになった、日本の労働の問題点とは?

武田鉄矢(たけだ・てつや)
1949年生まれ、福岡県出身。72年、フォークグループ『海援隊』でデビュー。翌年『母に捧げるバラード』が大ヒット。日本レコード大賞企画賞受賞。ドラマ『3年B組金八先生』(TBS系)など出演作多数。