教科書には載っていない“本当の歴史”――歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
武田信玄の娘5人のうち、姉と妹らが相模の北条氏政や越後の上杉景勝、信州の国衆木曽義昌に嫁ぐなか、次女の見性院(けんしょういん)だけが一族で父の重臣穴山信君(のぶただ・梅雪)の妻となった。
彼女は会津藩祖となる保科正之の事実上の養母として、名君を育てたことで史上に名を残す。そこには秘めたる思いがこめられていた。今回はその思いの正体をのぞいてみよう。
まず、他家の嫁となった姉妹らと違い、家中に嫁いだ見性院には父信玄が大勢力を築き上げた武田家への思いが強く、それが彼女の行動原理になったとみられる。ところが、夫の信君は当主の勝頼(信玄の四男)を裏切り、織田・徳川方となって天正10年(1582年)の武田家滅亡の大きな要因となった。彼女は夫の裏切り前に嫡男の勝千代とともに甲府の館を脱出しようとしているから、離反に同意していたはず。その矛盾する行動の理由は何だったのか。
まず「勝頼殿」などと呼んで、見性院が当主を「御屋形様」と認めていなかったこと。勝頼がその娘と勝千代との婚約を一方的に破棄したことに激怒したことも『甲陽軍鑑』に記されている。
次いで、夫信君の離反の際、信玄の孫でもある勝千代を勝頼亡き後の武田家当主とする密約が徳川家康との間で交わされていたのではないだろうか。事実、夫の信君が家康と上方見学中に勃発した本能寺の変の巻き添えで土一揆(いっき)勢に殺害された後、家康は勝千代に知行を与え、武田家を復興させている。