■夫に裏切られ嫡男の勝千代を武田家当主とするも……
しかし、天正15年、勝千代は急病のため16歳で他界してしまう。見性院の嘆きは深く、絵師に描かせた息子の肖像画があまりに似ていて悲しみが増したため、手元に置いておくことができなかったという。
やがて、亡くなった夫信君の養女(武田家旧臣の娘)である家康側室於都摩(おつま)の方の五男万千代(信吉)が勝千代に代わって武田家を継ぐ。彼は8歳で下総小金(千葉県松戸市)3万石の城主となり、同佐倉4万石、さらには関ケ原の合戦後の慶長7年(1602年)に水戸15万石を与えられるものの、彼もまた、跡継ぎを残さず、21歳の若さで没した。
その後、見性院は家康に保護され、江戸城田安門内の比丘尼屋敷で600石を賜る。その彼女に二代将軍秀忠の庶子幸松丸(こうまつまる・保科正之)の養育が託された。幸松丸の母・お静の方の身分が低く、嫉妬深いという秀忠正室崇源院(浅井三姉妹の三女)を憚(はばか)り、家康の子(万千代)を育てた見性院に白羽の矢が立ったのだろう。
生涯をかけて武田家再興に努めた見性院は幸松丸にその願いを託していたはずだ。しかし、幸松丸は武田家ゆかりの保科家の養子となったものの、武田幸松丸とはならなかった。彼女のスポンサーといえる家康が逝去していたからではないだろうか。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960 年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。