■青森県や北海道に残された“義経北行伝説”

 この頼朝と義経の確執が、なぜ起きたのか。義経が、平家から三種の神器を奪還する任務に失敗したからとも、頼朝に無断で後白河法皇から官位を受けたことが原因だともいわれています。

 真相は闇の中ですが、今も昔も兄弟というのは一筋縄ではいかないもの。弟の義経の活躍を見て、兄の頼朝は内心、穏やかではなかったのでは――なんて、私は想像してしまいます。

 1187年、追われる身となった義経は奥州平泉(現在の岩手県)へ逃亡し、藤原秀衡にかくまってもらいました。しかし、秀衡の死後、その息子の泰衡に裏切られて、1189年の“衣川の戦い”で義経は自害。31歳の生涯を閉じたといわれています。

 冒頭で触れた、“義経=チンギス・ハン説”の核心は、ここからです。実は、義経は奥州で死んでおらず、モンゴルに渡り、チンギス・ハンになったというんです。

 チンギス・ハンは、人類史上最大の版図を築いたモンゴル帝国の初代皇帝です。それが義経だったなんて、にわかに信じ難いかもしれませんが、見逃せない共通点が、いくつもあります。

 まず、“義経北行伝説”です。義経は平泉からひそかに脱出し、青森県から北海道、樺太、モンゴルへ渡ったとされるもので、現に、青森県や北海道には義経にまつわる場所がたくさん残っています。

源義経とチンギス・ハン
源義経(左)とチンギス・ハン(右)、両者の共通点とは――。