■『本能寺の変で死んでいなかった』説

 信長と相撲――この意外な結びつきは、彼の人物像を、いっそう豊かにしてくれると私は思います。現代の土俵で繰り広げられる取組の向こうに、安土の城下で相撲大会を催していた信長の顔が浮かんできます。

 さて、そんな信長ですが、「実は、本能寺の変で死んでいなかった」という説があるのをご存じですか?

 1582年6月、家臣・明智光秀の謀反によって京都の本能寺で襲撃された信長は、約1万3000の明智軍に包囲されます。抵抗むなしく最後は自刃に追いやられた――というのが“本能寺の変”の概要です。

 ただ、このとき、本能寺が焼失したことで信長の遺体を確認できなかったと伝えられています。戦国時代は敵将の首を取るのが勝利の証しですから、その首が見つからないのは大問題。儒学者・小瀬甫庵の『信長記』には、光秀が遺体を見つけられない状況にいらだっていたとも記されています。

 しかも信長は骨すら見つかっていないですからね。謀反を起こした明智光秀もすぐに殺されてしまいますし……。やはり、“何か”があると私は思うんです。