■吉原生まれの「冷やかし」
ただ、街に入るだけなら簡単なので、銭もないのに、きれいにお化粧して着飾った女性を一目見ようと、プラプラ見物に来る連中がいっぱいいた。
当時の吉原がある浅草界隈では“浅草のり”と言われるように、のり産業がはやっていた。巻き寿司を巻くときに使う“巻きすだれ”にドロッとしたのりを塗って、乾くとパリパリののりになる。それと同じ要領で、くず紙を熱でドロドロにして巻きすだれに塗って乾かすと、チリ紙ができる。
当時の江戸の街には紙クズ拾いをして、チリ紙を作って売る商売人が多かったそう。そんな彼らが、浅草近くの川べりに巻きすだれを、いっぱい並べて乾かしていたらしい。
紙が乾く間にちょろっと吉原に行って、目の保養に見世先に並んだべっぴんさんを眺める。お女郎さんも一目見れば、客かどうか分かる。
「この野郎、暇つぶしに見物に来やがって。買いもしないのに、紙が冷える間、見物に来やがった」
そこから転じて出来た言葉が、「冷やかし」。
こんなふうにして吉原の出来事が、現代にも残る言葉になっていくんですね。
また、当時の花魁は学問にも精通していたという説があります。
吉原遊郭をつくった最初の設計者は、“帝の世界”を再現することを夢見ていたのかもしれません。疑似バーチャルの宮廷の世界を、素人にも体験させようと考えたのではないでしょうか。禿の頃から読み書きはもちろん、髪型からファッション、文学から何から全部、仕込まれる。お武家様が来ても、一歩も引けを取らないほどの教養を持っていた遊女もいたといいます。
さぁて、お待たせいたしました。吉原について学んでいただいたところで、いよいよ“蔦重”こと蔦谷重三郎について語りたいと思います。
安永二年(1773年)の秋、『這嬋観玉盤』という「吉原細見」で蔦谷重三郎は初めて出版に関わります。このとき蔦重は24歳。江戸の出版界にデビューと相成りました。
『べらぼう』でも、ちょくちょく名前が登場した「細見」ですが、ズバリ言うと「ガイドブック」のこと。
旅用に地図付きの「街道細見」、歌舞伎の鑑賞用の「芝居細見」などなど、細見にもいろいろありますが、中でも評判を呼んだのが、吉原遊郭のガイドブックである「吉原細見」でした。縦版の冊子で1月と7月の年2回刊行。江戸の男で一度も見たことがないやつはいないというほどの大ベストセラーだったそうです。