■英雄ヤマトタケル伝説

 まず建命が相武の国に至ると、その土地の国造(くにのみやつこ)(地方豪族)に騙されて燃え盛る野原に取り残されるが、叔母から授かった剣で草を薙ぎ払い、また、走水(はしりみず)の海(浦賀水道)を渡る際に海峡の神が波を荒立てるが、后の弟橘(おとたちばな)比売命が海に身を投じて波を鎮めた。

 そして、東国平定後、足柄山で非業の死を遂げた后を思い、「吾妻(わがつま)は……」と漏らしたので足柄山の向こうを吾妻(あづま)と呼ぶようになる。

 しかし、その建命も、霊験ある草薙剣を尾張で知り合った美夜受(みやず)比売の元に置いていったのがいけなかったのか、ヤマトへはたどりつけず、伊吹山で山の神に祟られ、病の身となって能煩野(のぼの)(三重県亀山市・鈴鹿市)で没した。

 そして彼の魂は白千鳥に姿を変えて飛び去ってゆく……。

 とても実在の人物とは思えないが、「ワカタケル(若建)」の別名を持ち、勇猛な性格などの共通点が多い第21代雄略天皇がモデルとされている。

 だが、時代がズレすぎ、「タケル」という名は雄略の他にも、熊曾建兄弟や出雲建など、地方の支配者に冠され、勇猛さの象徴となっている。

 一方、ヤマト政権は支配地を広げて各地に「建部(たけべ)」という軍事氏族集団を配置。各所でそれぞれの英雄伝説が語られたと考えられる。

 しかも、建部の所在地の多くがヤマトタケルの遠征地と重なり合っているのだ。

 つまり、『古事記』が書かれた8世紀までに、雄略天皇の逸話をベースとしつつ、各地の建部伝説をあわせて英雄ヤマトタケル伝説が完成し、九州遠征などの逸話が残る景行天皇と結びつけられ、その皇子としてヤマトタケルが生み出されたのではないだろうか。

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。