■朝日新聞の記者から豆腐屋へ

 歴史に名を残す大冒険家のマルコ・ポーロは、ただひたすら東へ行ったら中国があって、そこの皇帝と仲良くなってウン十年過ごして帰ってきた。それだけでも『東方見聞録』っていう冒険記が書けて、当時、ヨーロッパで話題になったわけです。

 それと比べても“スペインに行って豆腐屋やりました”は、“地球一周しました”より、はるかに大冒険ではないだろうか。

 そんなふうに思えてきて読み始めたら、この著者が、なかなか引きつけられる人なんですよ。

 著者の清水建宇(しみず・たてお)さんは、1947年生まれ。戦後まもなく生まれた私と同じ団塊の世代。この方の経歴が豆腐屋とは、まったく縁もゆかりもない。

 もともと朝日新聞社会部で警視庁や宮内庁の担当をしていた00年1月から03年3月まで、『ニュースステーション』(テレビ朝日系)でコメンテーターも務めていたという経歴の持ち主。

「言われてみればテレビで、この名前を見た覚えがある」と思い出す人がいらっしゃるかもしれません。つまり、文字メディアの人であり、テレビメディアの経験もある人なわけで、私からすると比較的、身内に近い。「その人が、なぜに豆腐屋?」と思うと、余計に興味が出た。

 じゃあ、なんで清水さんがメディアの世界を退いた後、バルセロナで豆腐屋をやろうと一念発起したのか。それには、こんな理由があったんですね。

 当時、朝日新聞社会部で殺人などの凶悪犯罪を専門に追いかけていた清水さんは、ある日、『世界名画の旅』取材班へ異動することになった。それは清水さんが38歳のとき。それまで外国へ行ったことがなかった清水さんが、取材で訪れた15か国21都市のどこが一番良かったかを考えたとき、すぐに答えが出た。

「バルセロナ」

 清水さんによると、1936年に起きた市民戦争(スペイン内戦)で、バルセロナは共和派の拠点となり、王政復古をもくろむ反乱軍と熾烈な戦いを繰り広げたものの、2年後に陥落。7万人以上の死者を出し、内戦後の軍事独裁によって、多くの市民が処刑されたり、投獄されて拷問を受けた。現地語のカタルーニャ語は禁止されて、地名や通りの名前が変えられ、伝統音楽や祭りも禁止される酷い弾圧を受けた。

 バルセロナ市民はそのときのことをけっして忘れてはいない。市民の多くは“スペイン”を嫌っていて、「自分がスペイン人だ」ということを嫌悪している市民が大勢いるそうです。

 ゆえに、境界線がなく、清水さんのことも奇異の目で見ることが少なかったそうなんですね。

 

  歴史をひもといて、私の中ではバルセロナはいっそう輝きを増した。私は四〇歳になっていた。「残りの人生」という言葉にもちょっぴり切実さを感じるようになっていた。退職したらバルセロナに移り住みたい。そんな思いが芽生え、ふくらみ始めた (清水建宇.『バルセロナで豆腐屋になった――定年後の「一身二生」奮闘記』. 岩波新書, 2025, p.iv)

 

 本書にはこうありますが、これが第二の人生をバルセロナで送ろうと決めた理由です。