■開業から2週間で近所のレストランからクレーム
こうして、清水さんの豆腐店はバルセロナの街の人たちの間で噂になった。
「豆腐も売ってる弁当屋さん」
“弁当も売ってる豆腐屋”じゃないところが清水さんにとっては、ちょっと残念かもしれないけれど、不況のおかげでジャパニーズ弁当の人気はうなぎ上りだった。
ところが好事魔多し。開業から2週間ほどたつと、近所のレストランから弁当にクレームがついた。
「弁当の値段が安すぎる」
清水さんの弁当はレストランで食べる半額程度。これだけ値段の差があると、客が弁当に流れるのは当たり前ではないか……という抗議。清水さんの店が、あまりにも良心的な値段を付けていることで、街全体の商売のバランスを崩しているというわけですね。
オープン初日の換気扇に続いて、今度は弁当の値段にもクレームがついた。異国で商売をやりながら生きていくということは、この抗議と、どう折り合うか。それが大事なんでしょうね。
肝心の豆腐にも、お客さんから「こんなに安くして大丈夫なのか?」と、豆腐の値段について懸念する声が届いた。当時、フランスのパリでは、豆腐一丁が“5ユーロ(650円)”もしたそうです。それに対して清水豆腐店は一丁“1.7ユーロ(210円)”。半値以下の激安値段で売っていたわけで、お客がいぶかしがるのも不思議じゃない。価格設定について、清水さんには、こんな思いがあったそうです。
もともと厳密な原価計算をしてつけた値段ではない。弁当は日本から運ぶ容器の運賃や人件費などを計算すると、確かに利幅は少なすぎた。豆腐などは修業した三河屋の値段とあまり違わないようにすることしか頭になかった。師匠がつくった豆腐や油揚げより高くすることは許されないという思いがあったからだ (清水建宇.『バルセロナで豆腐屋になった――定年後の「一身二生」奮闘記』. 岩波新書, 2025, p.87)
しかし、ある日、客の日本人のご婦人から叱られたというんです。
「この値段はオカラに対して失礼だと思います」
そこで清水さんは気づいたんですね。良かれと思ってつけた値段でも、商品の値段がバルセロナの相場と比べて安すぎると、もしかすると、お客さんの中には「安いからアブナイ」と思う人がいるのではなかろうか。世間の値段と足並みをそろえないと商売というのはうまくいかないのではないだろうか。
「商品に自信がないから安くしてるんじゃないか」と思われるかもしれない。そのことに気づいた清水さんは、ここで一斉に値上げすることを決意します。
商売に必要なもの、それは近江商人言うところの“三方よし”なんですよ。
「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」
この三方が「よし」と手を打たないと、商売というのは成立しない。
清水さんはバルセロナの地で、まさしく、この“三方よし”に気づいたんですね。
元朝日新聞の記者が定年後、バルセロナで豆腐店を開業した。ゼロからの修行の日々、異国の地での苦労、新たな出会いと交流、ヨーロッパから見た日本とは――。人生後半の新たな挑戦を目指す人々に贈るエッセイ。

武田鉄矢(たけだ・てつや)
1949年生まれ、福岡県出身。72年、フォークグループ『海援隊』でデビュー。翌年『母に捧げるバラード』が大ヒット。日本レコード大賞企画賞受賞。ドラマ『3年B組金八先生』(TBS系)など出演作多数。