■野見宿禰のもう一つの顔
そんな宿禰には、もう一つの顔があります。埴輪の発案者です。古代、日本には、天皇が亡くなると、あの世へのお供として、生前、天皇に仕えていた人々を生き埋めにする“殉葬”の風習があったそうです。
垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった際、かねてより、その風習を疑問視していた宿禰は「生人を埋めるのは良くないことです」と、天皇へ進言。そして、出雲国から“土部(はじべ)”という職人を呼び、人や馬、その他さまざまな形の“土物”を作らせて、日葉酢媛命のお墓に副葬したそうです。垂仁天皇は、これを称賛し、宿禰に“土師連(はじのむらじ)”という姓を与えたと、日本書紀には記されています。
宿禰が、埴輪の発案者か否か。そもそも、野見宿禰は実在したのか。意見が分かれるところですが、私は、どちらも実際にあったのではと思っています。
宿禰が、出雲国の力士だと先ほど申しあげましたが、当時の力士は、現代とは大きく異なります。国一番の力自慢である力士は、その国を代表する存在だったはずです。しかも、宿禰は天覧相撲で勝っていますから、その後は天皇のボディガードのような役割をしていた。
天皇からの信頼も厚かったでしょうし、だからこそ進言ができて、それが受け入れられた。そう考えれば、埴輪の説話も十分にありうるな、と。