■名犬ラッシーに実在のモデルが

 だが、あの広い大海原で水の匂いをどれほど嗅ぎ分けられるのか……というのは、少々疑問に思ってしまう。

「個人的には難しいのではと思いますよ。実際、自分のいた川を“間違える”個体は意外とたくさんいるんです。日本のサケの場合、自分の川に戻ってくる頭数は全体の半数いるかどうかですから」(前出の今泉氏)

 天敵に食べられたために戻ってこられなかったというだけでなく、間違えて別の川に遡上していた個体が多くいるのだそう。

「でも、川が消えたり汚染されたりして住めなくなった場合、“生まれた川にしか帰って来ない個体”は川と共に滅んでしまったはずですから、この“間違い”こそサケを絶滅から守った理由かもしれませんよ」

 さらには、“理由は謎だが、なぜか家に帰って来られる”というケースもあると、今泉氏は言う。

「犬がそうですね。実は、あの『名犬ラッシー』にはモデルがいるんです」

 イギリスの小説『名犬ラッシー』は、飼い主の少年を追って冒険をしたコリー犬を描いた物語。映画やドラマでシリーズ化された世界中で有名な作品だ。

「ラッシーのモデルは “ボビー”というコリー犬なのですが、飼い主を追って歩いてきたのは3か月で4800キロ。冬のロッキー山脈を越えた、野犬狩りから逃げ出した、など数々の目撃談があります。でも、どうやって家を見つけられたのかは謎なんです」

 この犬の帰巣本能については、今泉氏独自の調査をしたことがあると言う。

「家から10キロ離した地点に目隠しをしたケージを置き、自分で帰宅できるのかという実験を4度行いましたが、すべて迷子になるか、方角すら合わずに失敗。あてどなく歩くうちに偶然家へたどり着く個体がいた──そんな可能性のほうが高いのかもしれません」

 結局、真偽は明らかにできなかったのだそうだ。

 つまり、帰巣本能の理由は「わからない」というのが答えなのかもしれない。

「他にも、“フンコロガシは天の川で糞を運ぶべき方位を知る”なんていう面白い論文まであるくらい、動物の“帰巣本能”や“自分の位置を把握する本能”があるという話はたくさんあるんです。でもその真実は、どれもまだ未解明。あくまで推測ばかりなんですよね」

 多くは謎に包まれているが、実際に帰ってくる動物がいるのは事実……それが帰巣本能。

 では、同じ“動物”である人間に帰巣本能は持ち合わせているのだろうか。生物学の側面から今泉氏は分析する。

「腎臓、肝臓に磁石があるという説はあるそうですが、僕が思うに、脳の発達による“記憶力”が帰巣本能に結びついているのではと思います」

 その根拠としては、2004年に行われたNTTの方向感覚の実験が根拠になると言う。

 その実験内容は、車の助手席から風景を撮影したビデオを対象者に見せ、内容を覚えさせた後に記憶をもとに地図を描かせ、最後に口頭で行き方を指示させるというものだ。

「この実験で帰巣本能がある、つまり方向感覚がある人が何を見ていたのかが分かりました。彼らは、道の把握に役立つ特徴のある目印となる建物、道路や交差点の形、商店名などを認識したんです。対して、“方向音痴”の人が見たのは、隣を走る車や横断歩道を歩く親子など。道の把握には役立たない事柄に注意を向けていたようなのです」

 つまり、視点の当て方を訓練すれば、“方向音痴”から脱却できる。そしてそれが、人間の「帰巣本能」ということなのかもしれない。だが──、

「とはいえ、世のお父さんたちが酔っ払っても“帰巣本能”を発揮できるのは、“奥さんに怒られる!”という危機意識からかもしれませんよ。どうしても帰らなきゃと、理性がどこかで強く働くから、身体が自然と家のほうを向くのです(笑)」

 帰巣本能の正体はいまだ分からず。ただ、人間を含め、動物も家に帰りたい気持ちは、誰しも変わらないようだ。

今泉忠明(いまいずみ・ただあき)
1944年東京都生まれ。東京水産大学(現・東京海洋大学)卒業。67年、国立科学博物館特別研究生、72年富士自然動物園協会研究員として哺乳類の調査等を行う。文部省(現・文部科学省)の国際生物学事業計画(IBP)調査、日本野生生物基金および環境庁(現・環境省)の委託により「イリオモテヤマネコの保護のための生態調査」に参加。トウホクノウサギやニホンカワウソの生態、富士山の動物相、トガリネズミをはじめとする小型哺乳類の生態、行動などを調査している。上野動物園の動物解説員を経て、「ねこの博物館」(静岡県伊東市)館長を務めていた。