■現実の切り取り方を変えて短歌へ
次にまいりましょう。
こんな瞬間が歌になるのか! と驚きました。日常の中には、こういう瞬間があるんですね。しかし私たちは、そういう瞬間を忘れている。あるいは気づかずに捨てている。でも、人生にはこういう貴重な瞬間があるんです。
二晩の看病を終えゆうぐれの吉野家が宇宙ステーションに見ゆ
(廣西昌也)
この一首はいろんなことを想像させられます。母君なのか奥様なのか、身近な方が重篤な病床におられる。おそらく集中治療室じゃないかな。
医師からは「あと何時間」などと告げられ、緊迫した状況の下で二晩眠らずに看病したら、容体が落ち着いて切迫した状況を抜け出した。医師からも「峠を越しました」と言われてホッとして安堵したら、「腹減ったなあ……」と思ったんでしょうね。何か食べ物を、と病院の外に出たら、そこに吉野家があった。
見慣れた吉野家なんだけれども、集中治療室からパッと飛び込んだ吉野家はまるで別世界の宇宙ステーションのように思えた。
集中治療室という「死との格闘の場」から、メシを食うという「生きるための場」へ。集中治療室とはまったく別世界の清潔感、食べるという力強い生命力あふれる行為。
作者は吉野家という空間に異世界を感じたんでしょう。だから、よく見る吉野家が宇宙ステーションのように感じた。
すごいと思いませんか? 牛丼を食いながら、こんな一首が残せるんだもの。ものすごい感性ですよね。
見慣れた空間がまるで別の空間のように見えた瞬間、現実の切り取り方を変えて短歌にすると、まるで別の世界が現れてくる。それが短歌という文学なんですね。
さあ、次いきますよ。こんなことも短歌になるのかという一首。
この作者は面白いところに目をつけたんですよ。なんともはや味のあるというか、まさにスパイスの利いた一首です。
祖父なんばん 祖母トンガラシ
父七味 母鷹の爪 兄辛いやつ
(踝踵)
これ、分かります?
全部、同じものなんですよ。唐辛子のことなんですね。これが同じ家族なのに、世代によって呼び方が、こんなに変わるという。これは日本独自の面白さではないだろうか。