■GHQのマッカーサーも計画を断念

 そもそも、平将門はどんな人物だったのか。

「将門は、10世紀前半に現在の関東地方にあたる東国で勢力を拡大した武将です。939年、常陸国府を襲撃したことをきっかけに、将門は関東各地の国府を次々と制圧します。

 朝廷から派遣された国司を追放し、関東一帯に独自の勢力を築きました。自らを『新皇』と称したことから、将門は朝廷に対する反乱として認識されてしまう。一方で、東国の民衆からは英雄視されていました」(前出の歴史専門誌編集者)

 日本最古の軍記物語といわれる『将門伝』には、「官軍がいっせいに将門を討とうとしたものの、その身はすべて“鉄身”で矢もとおらず、剣にも傷つかなかった」と書かれている。

 しかし940年、朝廷が派遣した藤原秀郷と平貞盛らの軍勢に攻められ、将門は下総国猿島郡(現在の茨城県坂東市周辺)で討ち取られてしまう。

「強風の吹き荒れる中、将門は、はじめ風上に立ち有利に戦いを進めた。しかし、しばらくして風向きが逆転したため劣勢となり、ついに“天罰”が下り、“神鏑(神の放った矢)”にあたって滅んだ」(『将門記』)。将門の遺体は京都に運ばれた。

「将門の首は京の七条河原にさらされます。何か月たっても首は腐らず、目を見開き、夜な夜な“斬られた我が胴体はどこだ。ここに来い。首をつないで、いま一戦しよ”と叫んでいたそうです。その首が東へ飛んでいくと、すさまじい音を立てて柴崎の地(現在の大手町付近)に落下。その首を埋葬したのが“将門塚”といわれています」(前出の歴史専門誌編集者)

 その後、関東で疫病や天変地異などが起こると、「将門の怨霊の仕業ではないか」と囁かれた。江戸時代、日輪寺が幕府に提出した「文政寺社書上」には、「将門塚」が荒廃して、将門の亡霊が村民を苦しめた記述が残されている。時宗二祖・他阿真教が村民の願いを受けて「将門塚」を供養し、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈ることで、祟りを収めたという。

 大正~昭和にかけては、「将門塚」を動かそうとすると関係者に、不審な死や事故が相次いだ。

「1923年の関東大震災後、大蔵省の庁舎を再建するために“将門塚”が整地されます。すると、1926年に大蔵大臣の早速整爾が急死、翌年には工事部長だった男性も死亡。さらに、計14人もの関係者が不審死を遂げたそうです。“将門の祟り”と噂され、動揺を鎮めるために1927年に鎮魂碑が建立されました」(夕刊紙記者)

 また、1945年にはGHQが「将門の祟り」に遭ったとされている。

「GHQが大手町一帯の整備をする中、将門塚を撤去しようとしたところブルドーザーが横転。運転していた人物が死亡したそうです。

 マッカーサーの副官宛てに、神田鎌倉町の町内会長から“これ以上、塚を壊すと大変なことになる”という陳情書が届き、米軍側はその計画を断念せざるをえなかったようです。一連の出来事は国税庁のホームページに記されています」(前同)