教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!

 川路聖謨(かわじ・としあきら)は、日本史上初めてピストル自殺した偉人──そう理解してよいのではないか。なぜ彼は自殺し、その手段にピストルを選んだのか。その生涯をたどってみよう。

 享和元年(1801年)に生まれるが、父の経歴には謎が多く、甲州浪人だったという説もある。豊後日田に流れついて幕府代官所の下僚になったといい、聖謨はその日田で生まれた。その後、父は御家人株を買って家族ともども江戸へ移り住んだとされ、聖謨は13歳のときに小普請組・川路光房の養子となって、17歳で勘定所の吏員登用試験に合格する。

 その後、出世を重ね、但馬出石藩(仙石家)の御家騒動の際に予審を担い、その手腕が評価されて35歳で勘定吟味役に抜擢される。御目見以上の幕臣が務めるポストだから、この昇進に伴って旗本の身分になったことになる。次いで佐渡奉行、小普請奉行、奈良奉行、大坂町奉行などを経て嘉永5年(1852年)、勘定奉行兼海防掛に任じられる。

 翌年のペリー来航以降は、勝海舟のように中下級の幕臣の登用が相次ぐが、それ以前に、ここまで異例の出世を遂げた例は極めて稀だった。

 その一方で、地方奉行時代には民衆に寄り添う姿勢も示した。佐渡奉行として、ある寒村を巡察した際、その食事のあまりの粗末さに「これをみても憐れと思わざるは、人間とはいうべからざる」と日記に書き残している。かといって、領民におもねっていては仕置きができず、とにかく誠意を尽くした政治をすべきだと自らを戒めているのだ。