■幕臣として徳川家と幕府に忠誠を貫く
その後、ロシアのプチャーチンが通商を求めて来航すると、使節応接掛を命じられ、下田で日露和親条約を締結。また、大船建造の禁を解いた幕府は、外国船と日本船を区別するため惣船印(国旗)の選定を迫られた。海防参与の前水戸藩主・徳川斉昭は、日本船すべての標識を現在の日の丸とするよう強硬に主張し、これを幕府船だけの標識にとどめようとする幕閣と対立した。このとき海防掛の聖謨も斉昭案を支持し、最終的に日の丸が国旗として採用された。
しかし、将軍継嗣問題などで大老・井伊直弼と意見が合わず、退隠を余儀なくされる。その後、文久3年(1863年)に外国奉行として返り咲いたものの、病を得て間もなく辞職し、再び隠居生活に入った。
その後、大政奉還から王政復古を経て幕府は消滅。そうして慶応4年(1868年)、薩長を中心とする官軍に江戸城が引き渡されると聞いた聖謨は3月15日、表六番町の自邸でピストル自殺を遂げる。なぜピストルを使ったのか。実は中風で半身不随にあり、割腹を試みたが、果たせなかったためとみられる。幕臣として徳川家と幕府に忠誠を貫いた聖謨、享年68の壮絶な最期だった。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。