■“伝説の走塁”は計算ずくだった
一方、逆に巨人がしてやられたのが、その2年前。在任9年でリーグV8回を数えた西武の知将・森祇晶監督が「最高傑作」と述懐する87年のシリーズだ。
それを最も象徴したのが、西武が王手をかけた第6戦。中堅手・クロマティの緩慢返球の隙を突いて、一塁走者辻発彦が本塁生還した“伝説の走塁”だろう。
その仕掛け人たる当時三塁コーチャーの伊原春樹氏は、
「あのプレーのおかげでその後も野球界でメシが食えた」と笑って言う。
「あの年は巨人が来ると思っていたから、デーゲーム終わりの自宅や宿舎で、巨人戦を観るのが日課だった。打球がセンターに飛んだら“使えるな”との考えは、早い段階からあったんだ」
なお、この試合では、2回にも同様の緩慢返球によって、清原和博が二塁から本塁に生還して先制点。それが「目くらましになった」と、伊原氏は続ける。
「三塁を回った清原が一瞬止まりかけてね。思わず私も声を荒らげた。そのイレギュラーで、逆に計算ずくだったのがバレずに済んだというのは確かだね」
結局、西武がこの試合を制して日本一となった。
また西武は92年、同じく捕手出身の野村克也監督率いるヤクルトと初対決。翌93年と2年続けて同一カードで最終戦にまでもつれ込んだ死闘は、今なお「史上最高のシリーズ」と語り継がれる名勝負だ。
「特に92年は、ヤクルトの杉浦享が延長12回に代打サヨナラ満塁本塁打を放った第1戦をはじめ、7戦中4戦が延長戦。他3戦中2戦が2点差以内のゲームという大激戦でした。中でも第7戦のヤクルト・岡林洋一と西武・石井丈裕の投げ合いは、今も“伝説”ですね」(在京スポーツ紙記者)
ちなみに92年は西武、93年はヤクルトが日本一となっている。
野村ID野球の申し子・古田敦也をして、「真に警戒すべきはベンチではなく、伊原さん」とまで言わしめた前出の伊原氏が振り返る。
「92年の最終戦は、投手の石井丈裕が打った右中間への当たりを、飯田哲也が取り損ねて同点に。それが日本一にもつながった。
一方、翌年の第4戦は同じ展開の同点機をその飯田の好返球に潰された。仮にあそこで同点なら、後の展開も変わっていたよね」