■野村監督が画策した天才・イチロー封じ
ちなみに、伊原氏は後に野村監督の指名で阪神コーチにも就いているが、その際もまだ、西武が勝利した92年の結末を、野村は「根に持っていた」という。
「当時、広沢克実は阪神の一員だったからね。最終戦最大のピンチだった4回の一死満塁。そこで本塁憤死した彼のことを“お嬢さんみたいなスライディングして”と、しょっちゅう槍玉に挙げていたよ」(前同)
一方、黄金期を迎えていた野村ヤクルトは、95年にオリックスと対決。巧みに“先制口撃”を仕掛けてイチロー封じに成功する。
「第2戦の10月22日はイチロー22歳の誕生日で、両親が合宿に訪ねて来て、イチローの大好物の磯辺焼きの餅を差し入れてくれたそうなんですが、1個食べるのが精いっぱいだったそう。絶不調でしたからね」(スポーツジャーナリスト)
当時、投手コーチだった角盈男氏がこう明かす。
「調べたらイチローのヒットゾーンは、ストライクゾーンから外にボール1個分、他より広い。それより外は明らかなボール球。要は対策がなかったんだよ。
そこでノムさんは、誰もが苦手なインハイを“弱点あり”と喧伝することで、彼自身に意識させた。それが天才のプライドを刺激することも見越してね」
その策が功を奏して、シリーズは4勝1敗で見事、ヤクルトに軍配。当時のマスコミも盛んに“イチロー封じ”の野村ID野球を持ち上げたが……。
「幸い、当時の投手陣はインハイに投げきるだけの制球力を備えていたが、実際は皆、限界を超えていた。こっちの狙いが当のイチローにもう少し早くバレていたら、3連勝からの4連敗も十分ありえるぐらい満身創痍だったんだよ」(前同)
ところで、連覇のオリックスVS巨人の対決となった翌年は“イチローで勝った”との印象も強いが、彼自身のシリーズ打率は両年ともに、打率2割6分3厘、1本塁打。長嶋茂雄監督率いる巨人も、けっして“イチローに負けた”わけではなかったのだ。
「長嶋さんも投手コーチのホリさん(堀内恒夫)も基本はバッテリーに任せるタイプ。あれこれ策を巡らせる人ではないからね。勝負どころでバッテリーが打たれた。それだけの違いじゃないかな」(同)
その長嶋巨人は2000年、王貞治監督のダイエーと相まみえる。最初で最後となった“ON対決”だ。
最終的に敗れた王監督は、無人となったドームの監督室で一人、悔しさのあまり放心していたという。
「あの年は、パ・リーグに割り当てられた日程が、日本脳神経外科学会の催しとモロ被りしていたんです」(前出のジャーナリスト)
福岡ドームが使えず、移動日ナシで福岡に移動して第3戦。その後2日空いて4戦目という変則日程に。
「これには王さんも“ウチの偉いさんは優勝なんかできないと思い込んでいたとしか思えない”と憤慨していたと聞きます。
あれで少なからず流れが変わったのは確かでしょう」(前同)