■選手の権利向上としての銭闘
「86年オフに実現したロッテからの“世紀のトレード”で、日本人初の1億円プレーヤーとなっていた落合は、さらに90年オフに2億円の大台も突破しましたが、このときは越年して、年俸調停までもつれている。
契約更改が調停に持ち込まれたのは、これが初。恐らく彼は、先陣を切って制度を利用することで“選手がモノを言う”という前例を作る狙いがあったはず」(スポーツジャーナリスト)
実際、変化は大きかった。
「日本ハムの西崎幸広が、5年連続2ケタ勝利からのダウン提示に“やってられるか!”と吐き捨て、会見場に入ってくるなりハンドバッグを床に叩きつけたのが、翌91年オフ。92年には大洋の高木豊が、球団初の1億円を目指して、落合以来の年俸調停に持ち込みました」(前同)
だが、当の高木が「調停が戦力外の要因」と述懐しているように、揉める選手には“厄介者”のレッテルも容赦なく貼られる。
ロッテで落合の薫陶を受けた愛甲猛氏も、選手の扱いの低さを、こう振り返る。
「俺の2年目なんて、最下位だから“全員一律5%ダウン”で始まったこともあった(笑)。ちなみに、その後のロッテは、揉めると面倒だと、記者が来る更改日より前に必ず下交渉をやっててね。さっさと判を押して帰ろうとしたら“あんまり早いと勘繰られるから、お茶でも飲んでいきなよ”と引き止められたよ」
また、大きく潮目を変えた“事件”としては、93年オフのFA制度導入と、翌94年に海を渡ることになる近鉄・野茂英雄の「任意引退」騒動も外せない。
野茂に先んじて「任意引退」を受け入れた前出の江本氏は、こう語る。
「野茂と団野村が道を拓いたのは間違いないが、あの年の彼は8勝止まり。仮に2ケタに乗せていたら、球団の判断も違ったんじゃないかと、私は思うね。
世間は確執のあった鈴木啓示監督を悪者のように言うが、もし監督が仰木彬さんだったら、彼の渡米自体があったかどうか……」
当時、鈴木監督を取材した在阪のスポーツ紙元記者は、こう語る。
「監督は300勝投手の自負がある。監督の指示に反して、投げ込みをしなかったり、スパイクをはいてランニングをしなかった野茂を、まだまだ半人前と思っていた節がある。だから、メジャー挑戦も“やれるもんなら、やってみい”という気持ちだったと思うんです」
一方、江本氏の古巣・阪神では、95年オフの契約更改時に、新庄剛志が「野球に対するセンスがない」と引退宣言をする事態が。
「遅刻した選手がいたら連帯責任で全選手に正座させるなど、藤田平監督の厳格な指導法と対立した末の発言でした。この発言は2回目の交渉のときで、1回目の際には、横浜への移籍志願をして断られているんです。横浜には当時、彼女だった大河内志保さんが住んでたから……」(前同)
結局、引退は撤回。翌96年1月下旬の合同自主トレに無事に参加した。
「初日の長距離走で断トツ1位に。亀山努は“あいつは練習しなくても独走。俺たちが一生懸命練習してもかなわないんだから、どこがセンスがないんや”とボヤいていました」(前同)
この年の9月には、その藤田平監督自身が、解任を不服として球団事務所に立てこもる騒動も起きた。
「午前2時過ぎまで約9時間の籠城劇でした。補強もせず、監督に責任を押しつける球団側も問題」(同)
暗黒期を象徴する一連の事件を江本氏は、こう語る。
「平も新庄もタイプの違う天才肌。まして新庄は、まだ人間的にも幼かった。そういう意味でも理解し合えなかったんじゃないかな。
まぁ、平は同級生で私もよく知っているが、打撃はあんなにきれいなのに、現役時代から性格は人一倍、ねちっこい(笑)。私が契約更改で粘らないことに“アホやな、行けば行くほど、ちょっとずつ上がるのに”と言ってたから(笑)」