■名将・森&野村の意外な素顔
そんな伊原氏と言えば、西武に黄金期をもたらした森祇晶政権の名参謀。
ベンチ裏では、常に冷静沈着な表の顔とは、また違う一面があったという。
「選手の前では一切そんなそぶりを見せなかったけど、悔しい負け方をしたときは、翌朝の食事の席でも“しかし昨日は……”と尾を引いて、よく愚痴っていたよ。
確かに、けっして明るい性格ではなかったけど、選手たちも交えて食事会をしたりも時々はした。私が西武に来る以前は“ケチ森”なんてあだ名もあったと聞いたけど、私が知る限り、そんなこともなかったよ」
その森と“智将対決”を繰り広げたのが、ヤクルト監督時代の野村克也。
“弱者の兵法”の実践家は、ミーティングや囲み取材で、故事成語を引き合いに出すことも多かった。
ヤクルトで投手コーチも務めた角氏が続ける。
「サラッと口をついて出るのかと思いきや、ああ見えて、しっかり事前に準備もしている。一度、なんの気なしに監督室に入ったら、珍しく慌てた野村さんに“いきなり入ってくるな”と怒られたこともあったしね」
今も語り草である95年日本シリーズにおける“イチロー封じ”では、「弱点ありと触れて回れ」なる指示の下、当の角氏も矢面に。
天才のプライドを逆手に取った揺さぶり作戦は見事に的中。イチローを封じ込め、野村ヤクルトは日本一へと駆け上がる。
「あれは、誰でも苦手な内角高めをことさら意識させただけ。そこに投げ切る制球力がウチの投手陣になかったら、成立しなかった策でもあるんだよ」(前同)
ところで、当時のオリックスを監督として率いた仰木彬も、数多くの“マジック”で名を馳せた智将。
近鉄監督時代は、さらに輪をかけて「勝つために、なんでもありだった」と、前出の伊原氏は振り返る。
「89年のシーズン終盤、西武の2勝1敗で迎えた藤井寺での直接対決4戦目。なんとしても3連敗は避けたいからと、前夜に降った小雨を理由に“球場のコンディション不良”で、試合を中止にされたこともある。
この試合、先発予定は近鉄をカモにしていた渡辺久信。あれが中止にならず、もし西武が勝っていたら、この年も勝率で西武が上。巨人を超えるV10を達成できたかもしれないよ」
その後の伊原氏は、直々に乞われて野村阪神でも守備走塁コーチに就任。
結果、両者は意見が合わず対立し、チームも吉田義男監督の最終年から4年連続で最下位に甘んじた。
当時、エースナンバーを背負った藪恵壹氏は、“ノムラの教え”は「参考になった」と、述懐する。
「あらかじめ冊子になったものが配布されたせいで、受け止め方は選手によって温度差もあっただろうけどね。ただ、歴代の監督と比べても、“頭を使う”ってことを意識づけられたのは確か。折に触れて読み返したり、私個人は実になった」