教科書には載っていない“本当の歴史”――歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
引き続き、NHK大河ドラマの主役・豊臣秀長の家族について書きましょう。今回は、豊臣政権「ナンバー2」となる男が愛した女性についての謎ときを始めます。
彼女は位牌に刻まれた法名(摂取院藤誉光秀比丘尼(せっしゅいん とうよこうしゅうびくに))から「摂取院」という院号や「光秀尼」という出家名で呼ばれ、また、法名に「藤誉」とあることから俗名は「お藤」とされる(以下、俗名で呼ぶ)。
秀長とお藤の出会いは、天正13年(1585年)に大和の支配を任された秀長が郡山城主となって以降と考えられる。天文9年(1540年)生まれの秀長は40代半ば。すでに豊臣政権の基礎が固まった時代だ。その遅すぎた恋に関して、『奈良名所八重桜』にこんな逸話がある。
「秋篠氏の娘が世をはかなんで尼となり、光明皇后創建の尼寺法華寺に入っていたところ、秀吉の舎弟(秀長)が光明皇后の忌日に法華寺へ参詣し、その尼を見初めて城へ連れ帰った。一夜明けて寺へ帰したが、その一晩で女子を身ごもった」
別伝では、仏に仕える身で不犯(ふぼん)の戒律を破ったため、お藤は寺に戻れず、密かに女子を産み、やがて秀長がそのことを知って郡山城主へ迎え入れたという。
つまり、秀長は尼さんに一目惚れしてしまい、城へ連れ帰って閨(ねや)をともにし、子供を孕ませたわけだ。これが女好きな兄・秀吉なら、その強引なやり方に批判が出るだろうが、生涯ほとんど女性の影のない秀長には、純愛や激愛という表現があてはまるのではなかろうか。