教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!

 豊臣秀長は天正13年(1585年)閏8月、兄秀吉から和泉・紀伊に加えて大和一国を賜り、計73万石余の身代となって郡山城に居城。大和大納言と呼ばれるが、その6年後の同19年1月22日、郡山城で病死する。

 その葬儀の導師をつとめた古渓宗陳の法語に「徳は文武を兼ね……」とあり、亡くなった人への評価だから美辞麗句が並ぶのは当然だが、そこには「陶朱(とうしゅ)・猗頓(いとん)の富を咲倒す」と意外な一文が加えられている。中国古代の蓄財家として有名な陶朱・猗頓より財産があったというのだ。

 事実、死亡時に郡山城に蓄えられた金銀は「金子5万6千枚余」と「銀子が2間(約3.6メートル)四方の部屋2棟いっぱいに積んであり、その数知らず」(『多聞院日記』)という状況だったという。では、なぜそのような蓄財ができたのだろうか。

 手がかりとなるのが奈良町(奈良市旧市街)の商人らへの貸付だ。秀長が奈良町へ頻繁に金を貸し付けていた事実が確認され、秀吉は、秀長の死後その貸し付けについて徳政を実施している。この貸し付けが無利子融資なら産業育成のためという理由付けができるが、秀長は城下の郡山町にも貸し付けを行い、その際、利子を受け取っている。