■秀長はなぜ蓄財に励んだのか
また、秀長のカネにまつわる疑惑がもう一つ。京の方広寺大仏殿建立に使う熊野の木材を大坂へ送る際、山奉行の吉川平介がその上前を懐に入れたために木材が高騰したらしく、秀吉は怒って吉川を捕縛・斬首する。
そして、秀長は天下の面目を失ってしまったと『多聞院日記』にある。不正はあくまで部下がしたことだが、翌年の年始のあいさつの直後に兄秀吉の不興を買い、その兄に面会できず、弁解のため郡山に帰れない状態になっている(『多聞院日記』)。その後、この事件での秀長の関与が明らかになったのかどうかは不明だが、疑惑が残る結果となった。
この木材買い付け事件への関与は別としても、秀長が蓄財に励んだのは事実と考えられる。だとしたら、なぜなのか。その理由として(1)カネに執着する性格だったから(カネの亡者説)(2)秀長の死後、朝鮮出兵の際の兵船建造にこの資金が使われたとされる(豊臣政権の裏金作り説)が挙げられる。
一方、『多聞院日記』によると、秀長が郡山入りした後、みそ・酒などの生活必需品について奈良での商売を一切やめ、郡山で商売を行うよう命令を出している。大和国の経済の中心を奈良から郡山へ移すため、奈良町の商人らに圧力をかけたといえる。その関連で、奈良町の商人に強制的に高利で貸し付け、結果、その利子によって財が蓄えられたと理解できる。しかし、だからといって、それだけが蓄財の理由と考えられず、謎は残る。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。